大河ドラマの名作『独眼竜政宗』がBS放送で再放送され、再び注目を集めている東北の覇者、伊達政宗。作家の濱田浩一郎さんは「政宗は豊臣秀吉に屈した後、徳川家に仕え、江戸幕府の大名として悠々自適の毎日を送っていた。政宗の従兄弟が政宗の日課を詳しく書き遺している」という――。

「大名の一日」をルーティーン動画のように見てみよう 

近年、YouTubeでルーティーン動画が流行っている。YouTuberの日々の日常を撮影し、動画としてアップしたものである。「○○をやってみた」のような企画系動画でもなく、旅行などの非日常の体験を動画にしたものでもない。ひたすら、その人の日常生活を撮影した動画が人気を集めているのだ。

人気YouTuberのモーニングルーティーンやナイトルーティーンは、何百万回も再生されるほどである。芸能人をはじめとする人気YouTuberの普段の生活を垣間見たいという欲求や、そこから何か学べるものや共感できるものを見つけたいという好奇心が、ルーティーン動画が人気の理由であろう。

では、「今生きている人ではなく、既に亡くなった人、しかも絶大な人気を誇る歴史上の人物で、ルーティーンを再現できないだろうか」と考えてみた結果、ある戦国大名の日常を再現できることに思い至った。それは、戦国武将の人気ランキングで、上位3名に選ばれることが多い、伊達政宗(1567〜1636年)である。

仙台城の伊達政宗像、2019年
写真=iStock.com/junce
仙台城の伊達政宗像、2019年(※写真はイメージです)

子どもの頃に病で失明し「独眼竜」と呼ばれた若き名将

幼少期に右目を失明し独眼竜と呼ばれたことで有名だ(幼少期に失明していなかったとの説もある)。一時は、現在の福島県、宮城県にわたる大領土を支配した東北の覇者である。豊臣秀吉や徳川家康に仕え、慶長遣欧使節(1613年)をローマに派遣。国際的視野も持っていた。

関ヶ原の戦(1600年)では徳川家康を助けて会津の上杉景勝と戦った。その軍功で刈田郡を与えられ、仙台藩62万石の礎を築き上げたことでも著名である。

寛永13年(1636)、江戸桜田邸で死去、70歳であった。

政宗はあの徳川家康にも警戒されていた。家康は元和2年(1616)1月、死の床につくが、その際に駆け巡ったのが「政宗謀反」の噂であった。これは、政宗の婿で、家康の六男・松平忠輝の讒言ざんげん(政宗は豊臣方に通じていた)によるものとされるが、諸大名の間にも緊張が走った。細川忠興(細川ガラシャの夫)などは、豊前小倉城にある子・忠利に対し「大略、必ず政宗出られるべしと存じ候」(大方、必ず政宗は挙兵するであろう)として、内々に戦の用意をするよう命じているのである。

家康も政宗の動向を疑い、政宗を駿府城に招く。両雄の会見により、事の発端が忠輝の讒言によることが分かり、家康は政宗への疑いを解く。しかし、政宗は、もし徳川方の軍勢が大挙して自らを攻めるならば、江戸に乗り寄せて、雌雄を決せんとの心掛けだったともいう(小倉博編『伊達政宗言行録』宝文堂出版、1987年)。